2009年の大和(奈良)の料理紹介

読売新聞に掲載
2009年12月5日
貴族の宴会料理をして奈良 パーク
ホテルが再現した「天平の宴」。
手前右のござの上は庶民の食事

2009年12月5日 読売新聞の記事を掲載
・よみがえる平城京 遷都1300年の物語
・天平の宮仕え 酒席で悲哀の一首
敷地はかなり広いが、家屋自体は狭い。職場
までの通勤がドア・ツー・ドアで1時間かかるのが難点だが、家賃はただなので文句はいえない。 年収は今なら230万円程度。勤務評定が定期的
にあり、昇進するかどうかこれできまる。
今から1300年前、奈良時代に生きた下級役人の
待遇の一つの例だ。
「彼らは国から給料をもらい、生計を立てて
いました。いわば、天平のサラリーマンですか
ね」と奈良市埋蔵文化財調査センターの
森下恵介所長は話す。
冒頭は、平城京の東南に近い左京八条四坊に
住んだ「山部針間万呂」という人物の暮らし。
東大寺に置かれた写経所が職場で、お経を書き
写した。”出社”は午前6時半で冬場だと
日の出前。早朝の徒歩通勤は何かと大変だった
だろう。
平城京は東側に張り出した外京も含めると
東西5.9キロ、南北は5.3キロ。
人口は不明だが、10万人が暮らしていたという
説もあり、有数の巨大都市だった。その中で
住所がわかるのは100人程度。貴族でも長屋王
など一部を除いてはほとんど特定されて
いないが意外なことに、下級役人に住所が
わかるケースが多い。正倉院文書に、借金の
証文が残っているからだ。「合六百文、加利別
月九十文」。役人で最下級の少初位下の針間万呂
は宝亀4年(773年)、土地と家を担保に役所
から600文を借りた。現代のの米の価格で換算
すると1文は約300円で18万円になる。利息は
月90文。年利に計算すると180%という高利だ。
栄原永遠男・大阪市立大教授(古代史)は
「給料を前借りしても、健康ならば働いて返済
できたが、体を崩すと無理。返せずにに逃げ
出した役人もいた」と話す。
アワビやタイ、イノシシの肉など、山海の珍味に
舌鼓を打った大貴族たちとは違って、下級役人の
日常の食事は、雑穀入りの米に一汁一菜程度と
考えられる。ただ、宴会は時々、開かれていた
ようだ。職場でミスをした役人が、迷惑をかけた
同僚のために宴席を設けたと記す文書もある。
山上憶良や大伴旅人をはじめ、万葉集には宴会や
酒の歌が多い。人々は顔を赤らめながら
<サラリーマンの悲哀>を詠んだ。上野誠・
奈良大教授(万葉文化論)は「宴会は気力や
体力を充電する生活のリズムの一つになって いた
」と言う。
この時代のブームは、現在のバックギャモンに
似た「すごろく」。当時の官庁街の一角で昨年、
さいころが出土した。角材を切り落としただけの
もので、休憩時間に即興で作ったのかもしれない
。ギャンブル化したため、禁止令が出たり、
殺人事件が起きたりするほどの過熱ぶりだった。
平城京に暮らしていたのは歴史に登場する大貴族
だけではない。律令国家をその都を支えたのは、
針間万呂のような庶民たちだった。つましい
暮らしの中で、酒やギャンブルでストレスを
解消する姿は、私たちと似ていなくもない。